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2022年3月15日 (火)

『哲学の起源と変貌 ー 古代哲学と近代哲学』 発売間近!

本書を大学の授業の教科書として使ってくださる方はいらっしゃるでしょうか! もしいらっしゃったら、ご一報ください(このブログのコメント欄でも結構です)。出版社が献本をしてくれるそうです。また、出版元(北樹出版 下記URL内「教科書案内」)に直接、献本を依頼してもらっても結構です。

http://www.hokuju.jp/textbook.html

なお、本書が書店に並ぶのは4月の予定ですが、本そのものはすでにほぼ出来上がっており、私の手元には今週中には(3月20日頃までには)届くはずです。

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以下は、この本の「はじめに」と「あとがき」です。

 

はじめに–––哲学とは何か

 この本を読み始めたあなたは今「哲学を学んでみようかな」と思っているはずです(読んでみて、途中で「やっぱりやめよう」と思うかもしれませんが)。では、そのあなたは、哲学とは何だと思っていますか。「哲学を学んでみようかな」と思った以上は、「哲学とはこんなものかな」というイメージは持っているはずです。

 でも、いきなり「哲学とは何か」と聞かれると、たぶん答えに困るでしょう。そもそも「〜とは何か」という質問は物事の本質を問う質問ですからそう簡単には答えられません。例えば、「人間とは何か」「教育とは何か」「人生とは何か」、これらはどれも答えるのが難しい問いですね。

 それなら、「哲学とは何を研究する学問だと思いますか」と質問されたらどうでしょう。もし「政治学とは何を研究する学問か」と問われたなら、「政治を研究する学問である」と答えることはできるでしょう。その程度の答えなら、「生物学とは何を研究する学問か」という問いにも、「言語学とは何を研究する学問か」という問いにも簡単に答えることができるはずです。「生物を研究する学問である」とか「言語を研究する学問である」と答えることはできますね。

 では、哲学についてもその程度の答えで結構です。哲学とは何を研究する学問ですか。あなたはこの質問にどう答えますか。なぜか哲学だけは答えにくいのではないでしょうか。政治学や生物学や言語学なら簡単に答えられるのに、哲学だけは答えにくいとしたら、それはなぜなのでしょうか。ひょっとしたら、この「哲学」という名前自体に問題があるのかもしれません。

 実は「哲学」という言葉は、本来の漢語(古代中国語)には存在しません。これは明治時代の初めころ、日本で西周という学者によって作られた、いわゆる和製漢語なのです。では、なぜ彼はその言葉を作ったのでしょう。日本が明治時代に開国して西洋の文化や学問を積極的に導入する中で、ある学問が日本に入ってきました。それは英語ではphilosophy(フィロソフィー)と呼ばれる学問です。西はこれに「哲学」という訳語を当てたのです。ですから、私たちが「哲学」と呼んでいる学問は、英語ならphilosophy(フィロソフィー)と呼ぶ学問なのです(ちなみに、フランス語ならphilosophie、ドイツ語ならPhilosophieです)。私たちが「哲学とは何を研究する学問か」という問いに答えられないのは、この「哲学」という訳語のせいなのかもしれません(政治学や生物学や言語学なら、その学問の名前を見れば、何を研究する学問かがわかります)。しかし、もしそれが訳語のせいであるならば、元の言葉を調べれば、「哲学とは何を研究する学問か」という問いに答えられるはずです。

 英語のphilosophy(フランス語のphilosophie、ドイツ語のPhilosophie)の語源をたどって行くと、最終的には古代ギリシア語のphilosophiā(ピロソピアー)にたどり着きます。ですから、この言葉の意味がわかれば、「哲学とは何を研究する学問か」という問いに答えられるはずです。

 さて、古代ギリシア語のphilosophiāは、philoとsophiāの合成語ですが、philoは「愛、欲求」、sophiāは「知恵、賢さ」という意味です。すると、「哲学」の本来の意味は「知恵(賢さ)を愛し求めること」、もっと砕いて言えば、「知恵が欲しい」「賢くなりたい」ということになります。

 では改めて質問しますが、哲学とは何を研究する学問でしょうか。知恵を研究するのでしょうか。もしそうなら、それはどんな知恵でしょうか。どうもよくわかりません。ひょっとしたら、「哲学とは何を研究する学問か」という問いに答えられないのは、必ずしも西周の訳語のせいばかりではなくて、哲学そのものにその原因があるのかもしれません。

 「何を研究する学問か」という問いは研究対象を尋ねる問いです。「政治学とは政治を研究する学問である」ということは、政治学の研究対象が政治であるということであり、「生物学とは生物を研究する学問である」ということは、生物学の研究対象が生物であるということです。では、哲学の研究対象は何でしょう。哲学者は古来様々なものを研究してきました。自然も研究するし、社会も研究するし、政治も研究するし、道徳も研究します。そして、自然を研究すれば、それは自然哲学と呼ばれ、社会を研究すれば社会哲学、政治を研究すれば政治哲学、道徳を研究すれば道徳哲学と呼ばれます。つまり、哲学はその他の学問のようには研究対象が決まっていないのです。

 したがって、それが哲学であるかどうかは、何を研究するかによっては決まらないのです。問題は何を研究するかではなくて、どう研究するか、つまり、どのように考えるかにあるのです。したがって、考え方そのものの中に哲学の哲学たる所以があるのです。

 では、どのように考えるのが哲学なのでしょうか。この問題には簡単には答えられません。私自身の考えでは、哲学的な考え方は、私たち自身が過去の哲学者が考えたことを追体験することによってしか身に付かないと思っていますが、そうではないと主張する哲学の専門家もいるかもしれません。つまり、「哲学とは何か」「哲学的な考え方とは何か」という問題に対しては、専門家の間でも必ずしも意見が一致していないのです。

 しかし、哲学に関して一つだけ専門家の間で意見がほぼ一致していることがあります。それは、哲学(philosophy, philosophiā)が古代ギリシアで始まったということです。ですから、古代ギリシアの哲学者たちがどんな問題に関心を持ち、その問題をどのように考えたかを私たちが追体験することによって、そもそも哲学とはどのようなものであったかという歴史的事実は確認することができます。

 本書では、そもそも哲学とはどのようなものであったかを知るために、まず、古代ギリシアの哲学を学びたいと思います。そして、その後で、近代ヨーロッパの哲学を学ぶ予定ですが、その時には、古代ギリシアの哲学との違いにも注目しながら近代哲学を学んでほしいと思います。

古代哲学と近代哲学

 さて、哲学は古代ギリシアで始まり、紆余曲折を経ながらも近代西ヨーロッパに継承されました。哲学はその長い歴史の中で様々な変化を遂げましたが、その中でも、17世紀に西ヨーロッパで起こった変化は哲学の歴史全体を大きく方向転換させる変化でした。例えば、自然観に関して言えば、自然界つまり宇宙を一つの生物と考える見方から、単なる物質と考える見方への変化です。前者は目的論とも呼ばれ、自然界に存在するものの生成変化はそれ自体が持つ目的に基づいて起こるという考えです。これに対して、後者は機械論とも呼ばれ、生成変化は機械のようにある仕組みに従って起こるという考えです。

 また、人間観で言えば、デカルトの「私は考える、だから、私は存在する(我思う、ゆえに、我在り)」の「私(我)」に代表される個としての人間に基づく個人主義の登場でした。デカルトの考えでは、世界が存在しようとしまいと、世界の中のすべてのものが存在しようとしまいと、それらのこととは全く関係なく、「考えている私(我)」が存在することだけは絶対に確実だから、そこから議論を始めようと考えましたが、この「考えている私(我)」は他のものとの関係は一切なしにそれ自体で存在しうる全くの個です。しかし、近代以前には、このような人間観はあまり見られませんでした。

 なぜこのように哲学が大きく変化したのでしょうか。それはおそらく17世紀の西ヨーロッパに、そのように変化せざるをえない何か特殊な事情があったからでしょう。しかし、その西ヨーロッパがその後、世界全体に影響を及ぼすようになり、世界中が「近代化」の名の下もとに西欧化(西ヨーロッパ化)されていきました。そして、17世紀の西ヨーロッパの特殊事情から生まれた思想が、人類普遍の思想、つまりすべての人間に当てはまる思想と見なされるようになり、さらに、その近代化が人類の進歩と見なされて、近代以前の思想がもはや古い価値のないものと考えられるようになりました。

 しかし、このような考えは正しかったのでしょうか。はたして哲学は発展したのでしょうか、人類は本当に進歩したのでしょうか。本書では、このような問題意識を持ちつつ、まず古代ギリシア哲学を、その後で近代西ヨーロッパの哲学を学びます。すなわち、最初に、そもそも哲学とは何であったのかを知るために古代ギリシア哲学を学びます。そして、次に近代西ヨーロッパの哲学を学んで、哲学がどのように変化したのかをできる限り明らかにしたいと思います。

 現代に生きる私たちは、近代西ヨーロッパの影響を大きく受けています。例えば、近代西ヨーロッパで生まれた「科学」は大きな力を持つようになり、今日では、科学的に証明されることが真理の証しであるかのように見なされています。また、科学の応用である「科学技術」は私たちの日常生活を支配しています。しかし、私たちが住んでいる世界は、科学の対象である均質で計量可能な世界なのでしょうか。また、私たちは現象だけを考察の対象とし、現象の背後にまで思考を及ぼすことをしないでよいのでしょうか。もちろん、このような問題意識は、近代以降の哲学者も持っていないわけではありません。しかし、近代以降の哲学は「科学的合理性」に引きずられているようにも見えます。

 また、近代西ヨーロッパで生まれた個人主義は、私たちに個人の権利の重要性を自覚させました。このような自覚は古代人には希薄な、近代西ヨーロッパが新たに生み出したものです。私たちはこの個人の権利を近代西ヨーロッパから学びましたが、その一方で、例えばアリストテレスが人間を「ポリス的動物である」と定義づけたような人間観、つまり、人間は本来共同体の中で生きるものだという人間観を忘れてしまいました。そして、それに伴って、市民概念自体が、古代と近代では大きく異なってきてしまいました。古代においては国家(ポリスpolis)と市民(ポリーテースpolītēs)は一体のものでしたが、近代以降、国家と市民は対立概念にすらなっています。

 私たちはここで、古代哲学と近代哲学を比較して、私たちが近代西ヨーロッパから何を学び、また、そのことによって、逆に、何を忘れたかを考えてみなければなりません。

 

(本文略)

 

あとがき

 現代の私たちは近代ヨーロッパから大きな影響を受けています。例えば、科学的な世界観や人間を個人として尊重することを学びました。しかし、その影響が大きいだけに、それらの考え方を絶対化しがちです。近代科学は世界を物質から構成されたものだと考えますが、歴史を振り返ってみれば、世界を一つの生き物と考える方が常識だったのではないでしょうか。また、人間は他の人々や自分が属する共同体の中で自己を形成するものだという考えの方が常識だったのではないでしょうか。

 哲学においても、近代以降の哲学だけしか学んでいないとそのような常識を見落としがちです。それで、本書では、まず、そもそも哲学とはどのようなものであったかを知るために古代ギリシア哲学を学びました。そして、その上で近代以降のヨーロッパの哲学を学んだので、近代ヨーロッパの思想がいくらか相対化できたのではないかと思っています。

 本書は哲学史の教科書ではないので、哲学の歴史が網羅されているわけでもありませんし、また、筆者である私自身が、哲学的思索の途上にあるので、十分に語り尽くせてはおらず、中途半端な内容になってしまったかもしれませんが、本書が、読者にとって自ら哲学的思索する出発点になってくれればと願っています。

 

内容紹介
哲学とはどのようなものであったか。純粋な知的活動としての哲学の始まりである古代ギリシアの哲学と、そこから大きく変化する近代ヨーロッパ哲学をその違いを交えながら読み解く。

目次
はじめに──哲学とは何か
  古代哲学と近代哲学
第1部 哲学の起源──古代ギリシア哲学
  哲学の始まり
1 ミレトス派
  ⑴タレス ⑵アナクシマンドロス ⑶アナクシメネス
2 ピュタゴラス
3 ヘラクレイトス
4 エレア派
  ⑴パルメニデス ⑵ゼノン
5 エンペドクレス
6 アナクサゴラス
7 原子論
8 ソフィスト
9 ソクラテス
10 プラトン
  ⑴現実と哲学 ⑵イデア論の世界観 ⑶想起説
11 アリストテレス
  ⑴第一哲学=形而上学 ⑵実践哲学
12 エピクロス
13 ストア派

第2部 哲学の変貌──近代ヨーロッパ哲学
  近代哲学の成立
  哲学の近代西欧への伝承
  哲学と科学
  近代哲学成立の歴史的背景
1 デカルト
  ⑴「我」の発見 ⑵世界の認識
2 ホッブズ
  ⑴世界観 ⑵人間観と国家観
3 イギリス経験主義
  ⑴ロック ⑵バークリー ⑶ヒューム
4 フランス啓蒙主義と産業革命
  ⑴啓蒙主義の時代 ⑵産業革命 ⑶近代合理主義
5 カント
  ⑴認識論 ⑵道徳論
6 ヘーゲル
  ⑴世界観 ⑵国家観
7 マルクスの唯物史観
8 サルトルの実存主義

あとがき

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